「好き」のはじまりって、なんだろう。

あの人が読んでるあの本には、
どんなことが書かれているんだろう。
あの本を読んでるあの人は、
どんなことを考えているんだろう。
その本のことも、その人のことも、
きっとそんなふうに気になりだして、
もっともっと知りたくなっていく。
そうして、またあたらしい「好き」が
どこかでひっそりとうまれるのです。

そんな「好き」がうまれる場所を、
どうにか園内につくりたい!
その思いつきを、カタチにすべく、
このコーナーは立ち上がりました。
コンセプトはズバリ、
「好きのはじまり」。

とまぁ、偉そうに書きましたが、
つまりは好きな本について好きなように
書いていきます、なコーナーです。

あなたの好きな本、募集中です。

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 男性 女性

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 0~10代  20~30代  40~50代  60代〜

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中村文則。「純文学でいま一番『売れる』作家」と謳われています。
また「売れる」のみならず、作品としての評価も高い。
野間文芸新人賞、芥川賞をはじめ、大江健三郎賞など数多くの文学賞を受賞しています。
またアメリカの文学賞「デイビッド・グディス賞」を日本人として初受賞したり、米Amazonやウォール・ストリートジャーナルのベスト10小説にもランクインするなど、海外からの人気・評価も得ています。

本書の内容はというと、
ライターである主人公が、猟奇的殺人で死刑を待つ身の男と接触し、その死刑囚のこと、そして事件のことを探っていく中で、だんだんとその真相が浮かび上がり、主人公がある事実に気づいたとき、、、!!
というようなストーリーです。
本の形式はミステリーで、トリックにも凝っていたり、真ん中でガラッと物語を転調させたり、様々な工夫で読者を楽しませようとしています。
そうでありながら、人の内側にも深く深く潜っていき、「犯罪とは」とか「人を裁くとは」とか、そういうテーマにも迫っていきます。

なかでも本書の核心は、その形式にあります。
この本は、本の中に物語があるのではなく、本というメディア自体が物語のなかに組み込まれています。
これは「小説」というジャンルでしか表現できないカタチだと思います。
これをたとえば、映画化しようとか舞台化しようとか、そういうことになったとしても、その表現方法というのがかなり難しくなるんじゃないでしょうか。

当たり前のことですが、小説は「文字」だけで構成されていて、それ故かなり制約がかけられています。
しかしその規制の中にいるからこそ、たくさんの作家がその壁を乗り越える策を数多く講じてきたし、読者の側も視覚的情報では得られない「想像の世界」を各々で構築していくことができます。
逆説的な言い方ですが、文字のみという「規制」による「自由さ」が小説にはあり、それが醍醐味でもあります。

小説に限らず、舞台や映画でも、「規制こそが自由を生む」のではないか、と思わせられることがままあります。
たとえば、「ノーカントリー」というアカデミー作品賞を受賞したスリラー映画には、BGMがありません。
あるのは、役者の声と物語のなかで発生した音のみ。音楽を使わないという規制を監督は自ら用いました。
そうするとなにが起こったのか。
作中に登場する機械的で冷酷無比な殺し屋の存在感が、無音であるが故に圧倒的なのです。
主人公が潜伏する部屋に近づいてくる殺し屋の足音と床の軋む音。
それこそが恐怖です。恐怖を煽るようなBGMでは表現できない緊迫感がそこにはありました。
音楽の排除は、その恐怖や殺し屋の掴めない人間性をよりクローズアップする効果を生み出したのです。

劇作家の野田秀樹は、演劇について、『大事なのはテーマではなく、小道具である』というふうに言っています。

芝居における男性による女役、或いはその逆、女性による男役が、すんなりと行くのは、舞台は「見立て」ることができるからである。舞台では、椅子を犬に見立てることもできるし、男を女に見立てることができる。大人を子供に見立てることも可能だ。(中略)さらに言うならば、舞台上では、何もないところにも何かがあるかのように見立てられる。それは、「見えない小道具」とでも言うべきか。窓があることにするとか、ドアがあることにするとか。かくて、「見えない道具」がそこに見えてくる。或いは「見えない場所」がそこに見えてくる。こうなると殆ど演劇にできないことはない。

要するに、「なにもないからこそ、なんでもできる」ということなのです。

最近読み終えた「アドラー心理学」についての本のなかで、「『所有』ではなく『使用』」というキーワードがありました。
「何を与えられているのか(所有)」ではなく、「与えられたものをどう生かすのか(使用)」をもっと考えなさい、ということです。
○○だからできない、□□だったらな、、、と嘆くのは、「所有」に囚われているからで、いまの自分にあるものを生かすそうという視点に切り替えれば、できることは多くある。アドラーはわたしたちにそうメッセージを送っていました。

ここでようやく今回の本の話に戻りますが、著者の中村さんは、「小説」というものの力・可能性をフルに生かそうとしているように映ります。
それは本書においてもそうですし、その他の最近の著作にも見られます。
彼の作品は、いわゆる「純文学」といわれるように人間の「内」に深く潜っていきながら、「外」の世界も激しく動かし、スリリングなエンターテインメント作品になっています。
読んでいると、「文体か、物語か」という二者択一ではなく、「どっちもやる!」という決意が透けて見えてきます。
本書でも、その決意は動じず、むしろ大きくなっているようにも感じました。

「小説にしかできないこと」と「小説にできること」。この両者を常に探りながら、中村さんは筆をとり続けているのだと、彼の作品を読むことで想像できます。
小説の力を信じる気概、とでもよぶべきものを、読書を通して感じることができるのです。

小説のみならず、どんな仕事でも、彼の姿勢というのは学ぶべきところがあると思えます。
彼の描く世界には暗いテーマが多いですが、彼の紡ぐ物語も含め、その姿勢というものを読み取る作業はとても有意義な経験になります。
ぜひ一度、ご一読をお勧めします。

「去年の冬、きみと別れ」(2013) 著・中村文則


(2015-01-15-Thu)